ときどき、自分に娘がいることを想像する。
膝の上で抱いていた私の娘は、ベルリンの薄暗い地下鉄の車内で私の太ももの上で立ち上がろうとする。
私は彼女の手を取り、なんとか立ち上がれるようにしてあげる。
ぷきぷきした小さい手はしっかりと私の手をつかみ、ふらふらと立ち上がる。ハイハイで鍛えた足は電車の揺れにも負けないぐらいに力強い。
私の娘は嬉しそうな顔をする。私も思わず満面の笑みになる。
視界の端で、いかにもベルリン風のストリートファッションの男の人がこちらを見たのが映る。彼は微笑みを口元に残したまま、手持ちのペーパーバックに視線を戻す。
私の娘は、公園で年の近い子を見つけると躊躇いなく近づいていく。そのくせ声はかけず、じっと相手を見つめる。相手の子もじっと見つめ返して。気がつくと2人は一緒に遊びだしている。
その子のことをベンチから見つめる親を探し当てて、視線で挨拶を交わす。
私は娘の髪をすく。風呂上がりの濡れた髪を乾かしてやる。自分が親にそうしてもらっていたように。子どもの髪は細くて色素が薄い。ぱらぱらとまとまりのない髪の毛をなんとか結うけれど、娘は別の髪型がいいとごねる。なんとかなだめて、遅刻しそうな保育園に送り出す。
彼女はいずれたくさん喋るようになるだろう。
どんな食べ物が好きで、なにが嫌いだろうか。
家で遊ぶのが好きか、外で遊ぶのが好きだろうか。
なんの習い事をしたがるだろう。
もっと大きくなったらどんなティーンエイジャーになるんだろうか。
私の娘もまた、自分の髪を抜くようになるだろうか。
自分が11歳のときに始めたこの悪習は、33歳になった今でも私に呪いをかけている。
何気なく始めた髪を抜くという行為に、抜毛症という名前がついていていることを、奇病として紹介していたバラエティー番組を見て偶然知った。そこから自分が抜毛症であることを認めるまでに10年以上の年月が必要だった。
私は年々悪化する抜毛症を抱えたまま、中学に上がり、不登校になり、高校受験を経て社会生活に復帰し、大学受験を乗り越えて東京の大学生になり、そして社会人になったころ、これまで無理して押し通してきた頑張りができなくなって、ある日ぽっきり折れてしまった。
勉強中の抜毛もそれはすごかったけれど、一番抜いたのは社会人になってから。
上司の理不尽な𠮟咤に耐えきれないほどのストレスを抱えていた。
そして若い女の子として生きていく上で、髪が一部無い、それも脱毛じゃなくて自分の意思による抜毛で失ったということがどうしようもなく辛かった。
なぜ自分はストレスを感じると髪を抜かなければいけなくなったんだろうと振り返ると、恐らくそれは私が子どもだったからだと思う。
母との関係が辛く、家の中でも外でもストレスを感じ、自由にできるお金や時間はなく、自分の管理下にあるのは自分の身体だけ。それを使ってなんとか生き延びなくてはならず、そこに髪の毛があっただけなんだと思う。
まずは抜く時のちくっとした刺激が好ましいと思った。最初はそれだけで十分だったのだけど、量が増えるにつれてある変化が起きた。
髪の毛を抜いている間だけ、私は無心で、なにも感じず、なにも考えず、だからその間だけは現実から自由になれると学習してしまった。
だから背中を丸めるようにして何時間も抜いた。
だめだだめだ、こんなんじゃ絶対にいつかハゲてしまう。自分を殴ってでも止めたい気持ちと、それを上回る抜毛衝動、そして我に返ったあとの罪悪感と自己嫌悪で、気持ちはいつでもぼろぼろだった。
このとき私は乖離状態にあったのだと、何年もあとに臨床心理士の方が教えてくれた。
抜毛症であることを受け入れたこと、そして人生のパートナーに出会ったことで、ずっと下り坂だった症状は底を蹴った。
その後、小さな山と谷を繰り返しながら、抜毛症との付き合いは続いている。
とくにここ数年は、忘我の境地になるほど抜毛に逃げ込むことがなくなった。
むしろたくさん抜いてもその境地に行けなくなってしまった、とも言える。
でも前日、いろいろな出来事が重なり、なにを犠牲にしてでも少しの間だけ現実から切り離されたいと願ってしまった。
開かない扉を叩き続けるように、私は髪を抜き続けた。
抜き続けていると、あるときから頭皮の抵抗を感じなくなる。土壌が緩んだようにするりと抜けてしまう。
長年同じ場所を抜き続けているせいで、15本に一本は完全な白髪だ。普通の毛より太くうねっていて、毛根まで白くてちょっと感動する。しばらく眺めて、その白い毛根を唇にあてて感触を確かめる。ひんやりとしてぺたりとする。
しばらく続けたけれど、なにも感じなくていい空間には結局いけなくて、私は現実に戻ってくる。罪悪感は20代に置いてきた。自分を責めたって良いものはなにも生まれない。
無理矢理止めようという努力を散々したあと、私は抜毛症と上手く付き合っていこうと方針転換した。
その結果、私は以前よりよほど幸せを感じている。
そのおかげで抜毛を必要とする頻度や量も明らかに減ってきた。
ただ、20年以上のダメージの蓄積は深刻で、私の頭頂部には今大きく肌色が見える。
昔の私の考え方だったら、自分で抜いたのだから当然の結果として受け止めるべきと考えただろう。
でも今の私はそう思わない。そんなに生真面目に、自ら罰を受けなくてもいいじゃないか。これまでにだって十分苦しんできたんだから。
好きな色に染めたり、植毛したり、思いっきり好みのウィッグにしたり、罪悪感から自由な選択をしたいと思う。
抜毛症であることへの考え方が変わって、もっと自分を許してあげられるようになると、母との確執も少しほどけてきたように思う。
私は一癖も二癖もある女系の家の末裔なので、こんな自分からは娘が生まれるだろうという確信は変わっていない。
でも私が母と同じように過干渉な母になって、娘が抜毛症になるという負の連鎖のシナリオからは、今の自分は少しだけ違う方角を向いている気もして、そんな風に感じられるようになったことが自分にとっての希望だ。
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Gena
90年代生まれのボディポジティブモデル。11歳の頃から抜毛症になり、現在まで継続中。SNSを通して自分の体や抜毛症に対する考えを発信するほか、抜毛・脱毛・乏毛症など髪に悩む当事者のためのNPO法人ASPJの理事を務める。現在は、抜毛症に寄り添う「セルフケアシャンプー」の開発に奮闘中。
2025-06-04T11:15:31Z